『国宝』はなぜ売れたのか ― 歌舞伎に興味がない私が見た、才能・血筋・評価される世界の違和感

どうも。

 

今回、『国宝』を観た理由は、歌舞伎に興味があったからでも、出演俳優のファンだったからでもない。

単純に、「これだけ大ヒットしている作品なのだから、何かしら売れる理由があるはずだ」という好奇心からである。

私は基本的に、「みんなが使っているから」「流行っているから」という理由だけで物事を選ばない。

例えばiPhoneシリーズは世界的に売れているが、正直なところ、私には消去法で選ばれているように見える部分もある。

デザインにはほとんど興味がないし、使いやすさもそこまで突出しているとは感じない。

バッテリーも特別優秀とは思わない。

ただ、セキュリティ面ではAndroidより有利そうであり、OSのサポート期間も長い。

そのため、私は主にセキュリティ上の理由で所有している。

 

Windowsパソコンについても似たような考えだ。

アップデートは煩わしいし、シェアが高い分だけ攻撃者にも狙われやすい。

価格も安くはない。それでもWindowsでしか動かないソフトが存在するため、一応所有しているに過ぎない。

実際には、私のメイン環境はすでにLinuxへ移行している。

 

つまり私は、「売れているから価値がある」とは考えていない。

大切なのは、自分にとって本当に必要かどうか、自分の目的に合っているかどうかである。

だから私はミーハーではないし、むしろ人があまり注目していない掘り出し物を発掘するほうが好きだ。

読書でも同じである。私は下村敦史という作家の作品をよく読む。

世間的にはそこまで有名ではないかもしれないが、内容は非常に濃い。

それにもかかわらず図書館で比較的簡単に借りられる。

 

また、私が使っているGrapheneOSも一般人にはほとんど知られていないマニア向けOSだが、セキュリティ上の必要性を感じているため利用している。

このように私は、人気や知名度ではなく、自分にとっての価値で判断するタイプの人間である。

そんな私が今回『国宝』を観たのは、「これほど多くの人を惹きつけた作品には何があるのだろうか」という純粋な興味からだった。

果たして本当に大ヒットするだけの理由があったのか。

その点も含めて、ここから内容と感想を書いていきたいと思う。

 

正直に言うと、序盤の1時間20分くらいまではかなり退屈だった。

実は原作小説の『国宝』も以前に中古で購入して読んだことがある。

しかし、あまりにも序盤が退屈に感じられたため、最後まで読み切ることなく途中で読むのをやめてしまった。

 

そして今回映画版を観てみたのだが、印象はほぼ同じだった。

歌舞伎の世界や登場人物の成長を丁寧に描いているのは分かるのだが、私自身はそこまで引き込まれず、物語がなかなか頭に入ってこなかった。

あまりにも退屈だったので、途中からは完全に集中して観ることができず、ながら見の状態になってしまった。

その結果、登場人物の関係性や細かい展開を十分に追えなくなってしまった。

そこで私は、内容を正確に把握するためにChatGPTにあらすじを聞くことにした。

 

 

『国宝』序盤(約1時間半まで)のあらすじ

物語は1960年代。

主人公の 立花喜久雄(吉沢亮) は長崎の任侠一家の息子として生まれる。

父・権五郎は地元では名の知れたヤクザだった。

喜久雄は美しい顔立ちを持ち、幼い頃から踊りの才能を見せていた。

しかし抗争が起き、喜久雄の父は目の前で殺されてしまう。

 

喜久雄は一気に天涯孤独となる。

その場に居合わせた上方歌舞伎の大名跡、花井半二郎(渡辺謙) が喜久雄の才能に目を留める。

半二郎は喜久雄を引き取り、

ヤクザの息子

歌舞伎役者

という普通ではあり得ない人生が始まる。

 

俊介との出会い

半二郎には実の息子、大垣俊介(横浜流星)がいる。

俊介は歌舞伎の名門に生まれた正統後継者。

一方の喜久雄は外様。

つまり、

俊介
=血筋

喜久雄
=才能

という対比で描かれる。

二人は兄弟のように育つが、同時にライバルでもある。

 

喜久雄の才能が異常

物語前半で一番印象的なのは、喜久雄が歌舞伎を覚える速度。

稽古を見ただけで吸収し、女形としての色気や所作も周囲を驚かせる。

歌舞伎の世界では本来、血筋→芸が絶対視される。

しかし喜久雄は、その常識を才能だけで破壊しかねない存在として描かれる。

 

俊介の苦悩

逆に俊介は苦しむ。

歌舞伎の世界では跡取り=必ず優秀ではない。

俊介は努力家だが、喜久雄の天才性を目の当たりにする。

親友として尊敬する一方で、嫉妬も抱く。

ここから友情と競争が物語の中心になる。

 

春江との関係

喜久雄は福田春江(高畑充希)と出会う。

春江は喜久雄に好意を抱き、精神的な支えになっていく。

しかし喜久雄は、普通の恋愛よりも歌舞伎→芸を優先する男として描かれる。

前半ではまだ大きな恋愛ドラマにはならないが、後の伏線が張られていく。

 

半二郎の事故

物語が大きく動くのはここ。

歌舞伎界の大スターである半二郎が事故で倒れる。

代役が必要になる。

誰もが跡取り息子の俊介が選ばれると思っていた。

しかし半二郎が選んだのは喜久雄だった。

 

運命が狂い始める

これが前半最大の転換点。

俊介からすると、生まれながらの後継者だったはずなのに、父が自分ではなく喜久雄を選んだ。

一方の喜久雄も、親友の立場を奪うことになる。

ここから友情→ライバル関係→運命の分岐が始まる。

映画前半の約1時間半は、この二人の関係が決定的に変わるまでを描いている。

 

この時点でのテーマ

1時間半時点で見えてくるテーマは、

  • 血筋と才能
  • 世襲と実力
  • 芸への執着
  • 親友同士の競争
  • 「本物の役者」とは何か

です。

表面的には歌舞伎映画ですが、実際には「才能を持つ者」と「血筋を持つ者」の悲劇を描いた作品になっています。

だからこの時点ではまだ「国宝」ではなく、二人の少年が親友→ライバルへ変わっていく物語として見ると理解しやすいです。

 

 

後半に急に面白くなったので、ChatGPTに聞いた回答が以下。

 

はい、そこから急に物語が「血筋 vs 才能」だけではなく、欲望・恋愛・破門・転落・再起の話になって、一気に人間ドラマが濃くなります。

森七菜が演じる彰子は、歌舞伎の名門側の娘です。

喜久雄にとっては、ただの恋愛相手ではなく、歌舞伎界に戻るための“血筋への入口”にもなる重要人物です。

公式情報でも、映画は任侠の家に生まれた喜久雄が歌舞伎役者として芸に人生を捧げる一代記とされています。

 

彰子が出てきてからの流れ

彰子は喜久雄を「喜久兄ちゃん」と呼ぶので、あなたの見立て通り、関係を持った相手は基本的に喜久雄で見ていいです。

喜久雄はもともと任侠出身で、歌舞伎の血筋ではない。

にもかかわらず、芸の才能だけでどんどん上に行く。

しかし歌舞伎界は、才能だけでは通れない世界でもある。

そこで彰子との関係が表に出て、彰子の父親側・歌舞伎界側に知られる。

 

ここで喜久雄は一気に立場を悪くします。

彰子側から見れば「好きな男と一緒になる」ですが、喜久雄側から見ると、これは歌舞伎の家を出る=破門に近い転落になる。

実際、喜久雄と彰子が歌舞伎の家を出る展開について、彰子にとっては親への反抗、喜久雄にとっては破門だと整理している考察もあります。

その後、喜久雄は大きな舞台から外され、彰子と一緒に地方の小さな舞台や宴会場を回るようになります。

いわゆるドサ回りです。

華やかな歌舞伎座の世界から、地方営業のような世界へ落ちる。

ここで映画の空気がかなり変わります。

 

彰子の役割

彰子は、ただの恋愛要員ではありません。

彼女は喜久雄と一緒に落ちていきます。

車で移動し、衣装を運び、身の回りを支え、地方の舞台を回る。

つまり彰子は、喜久雄の「転落」を一緒に背負う存在になります。

映画では長く説明されませんが、彰子はお嬢様的な立場から、かなり泥くさい支える側に変わっていく。

ここが面白いところです。

 

ただ、喜久雄の本命は人間ではなく、結局はです。

彰子と関係を持っても、彰子に救われても、喜久雄の目はずっと歌舞伎の方を向いている。

だから恋愛ドラマとして見ると少し冷たい。

けれど芸道ものとして見ると、喜久雄は「人間関係すら芸のために飲み込んでいく男」として描かれています。

 

喜久雄はなぜ追い出されたのか

理由はひとつではありません。

大きく言うと、元ヤクザの出自、血筋のなさ、女性問題、隠し子や過去の暴露、師匠の死、俊介の復帰などが重なります。

Yahoo!知恵袋の回答では、喜久雄が元ヤクザで入れ墨があり隠し子がいることを週刊誌に暴かれ、さらに師匠が亡くなり、息子の俊介が戻ってきたことが歌舞伎界を干される要因として整理されています。

これは公式情報ではなく視聴者解釈ですが、映画の流れを理解する補助にはなります。

 

つまり喜久雄は、芸の実力では勝っていても、守ってくれる「血」がない。

問題が起きた瞬間、切られやすい。

これが『国宝』の残酷なところです。

 

その後、喜久雄はどうなるか

喜久雄はドサ回りをしながらも、芸を捨てません。

むしろ落ちたことで、芸への執着がさらに濃くなる。

華やかな舞台を奪われても、地方の小さな場所で踊り続ける。

そして最終的には、人間国宝の小野川万菊に見出され、再び歌舞伎の世界へ呼び戻されます。

複数の考察でも、喜久雄が彰子に支えられながら地方を回った後、万菊によって歌舞伎界に戻される流れが整理されています。

 

ここから物語は、喜久雄と俊介の関係に戻っていきます。

俊介は「血筋」を持つ男。

喜久雄は「芸」しか持たない男。

一度は別れた二人が、再び舞台で交差する。

しかも俊介は後に病に苦しみ、足を失う展開になります。

そこでも「血筋」は祝福ではなく、呪いのように描かれる。

俊介が糖尿病で足を切断することになり、血筋が原因で歌舞伎を諦めざるを得なくなるという解釈もあります。

 

なぜ彰子から面白くなるのか

たぶん僕が退屈に感じた前半は、才能ある少年が歌舞伎の世界で成長する話だったからです。

でも彰子が出てきてからは、才能があっても、出自・女・血筋・世間体で人生が壊れる話になる。

ここで急に現実のドロドロが入る。

だから面白くなるんです。

 

『国宝』は歌舞伎の映画というより、後半に行くほど、芸のために人生を差し出した男の怪物化の話になります。

彰子はその入口です。

彼女の登場によって、喜久雄は「天才の若者」から、「芸のためなら人生も女も血筋も利用し、同時にそれらに傷つけられる男」へ変わっていく。

ここから映画の本番が始まる、という感じです。

 

 

感想としては、前半から中盤、具体的には2時間くらいまでは正直そこまで面白いとは感じなかった。

しかし、後半の約1時間に入ると一気に物語が動き出し、それまで積み重ねてきた人間関係や伏線が回収され始める。

そのあたりから急激に引き込まれ、最終的には「なるほど、こういう作品だったのか」と思わせる展開になっていた。

 

また、本作は歌舞伎を題材にしているが、歌舞伎の演技や舞台の美しさについては、主演の二人が非常に整った容姿をしていることもあり、映画館の大画面で観たほうが圧倒的に映える作品だと思う。

私はパソコンの小さな画面で視聴したため、歌舞伎シーンの迫力や美しさが十分に伝わってこなかった。

映画館の大スクリーンで観た人と、自宅でAmazon Primeなどを通じて観た人とでは、作品に対する印象や評価にかなり差が出ても不思議ではないように感じた。

 

実際、Amazon Primeのレビューを見ると評価はかなり割れている。

しかし、私個人の評価としては3.5点程度であり、絶賛して5点を付ける人と、酷評して1点を付ける人に極端に分かれている理由は正直よく分からなかった。

もちろん作品の好みは人それぞれだが、現時点ではレビュー数が32件と少なく、サンプル数としてはまだかなり小さい。

そう考えると、Prime公開直後ということもあり、関係者や熱心なファンが早い段階で評価を入れている可能性もあるのではないか、と少し疑ってしまう部分もあった。

 

 

私自身の感想としては、この映画を観て改めて感じたのは、人は配られた才能のカードだけで人生が決まるわけではなく、「どの土俵で戦うか」によって結果は大きく変わるのだな、ということだった。

私はもともと人的資本の構築や能力開発を重視する考え方をしている。

もちろん、生まれつきの才能や環境の差は存在すると思う。

しかし、仮に才能というカードが配られているとしても、そのカードが活きるかどうかは戦う場所によって大きく変わる。

 

『国宝』で描かれる歌舞伎や芸能の世界は、非常に特殊な世界である。

そこでは実力だけではなく、血筋や家柄、人脈、後ろ盾が大きな意味を持つ。

さらに、スキャンダルや世間体によって立場が大きく左右される世界でもある。

その意味では、一般社会よりも「実力以外の要素」が強く働く業界なのかもしれない。

 

また、この映画を観ていて感じたのは、「認められる」とは何なのかという問題である。

例えば喜久雄は才能を持っている。しかし、その才能を誰が評価するのか。

観客の数なのか。興行収入なのか。歌舞伎界の重鎮なのか。名跡を持つ偉い人なのか。

それによって結果は大きく変わってしまう。

実力そのものよりも、「誰が評価権を持っているのか」が重要になる世界に見えた。

 

一方で、私はそうした世界とはあまり縁がない。

ブログ執筆にしても、電子書籍にしても、YouTubeにしても、もちろん運の要素はある。

しかし基本的には、実力+運で勝負する世界だと思っている。

歌舞伎や芸能界のように、血筋や家柄が決定的な意味を持つ世界ではない。

 

もちろん人脈やコネが有利に働くことはあるだろう。

しかし、それが絶対条件というわけではない。

実際に無名から成功する人も存在する。 

そのため、私は喜久雄や俊介の葛藤を理解はできても、そこまで強く共感することはできなかった。

 

そもそも私は歌舞伎そのものにあまり興味がない。

これも大きな要因だと思う。

さらに言えば、私は基本的にミーハーな性格ではない。

「みんなが面白いと言っているから」「世間で話題だから」という理由だけで高く評価することはない。

私の判断基準は一貫していて、それが自分の人生とどれだけ関係があるのか。自分にとってどれだけ有用なのか。自分の人生に応用できる部分がどれだけあるのか、という点を重視している。

 

そう考えると、『国宝』がいくら話題作であり、多くの人に絶賛されていたとしても、歌舞伎という題材自体が私の人生とはかなり縁遠い。

しかも、そこから自分の人生に持ち帰れる学びや活用できる部分も、それほど多くはなかった。

だからこそ、世間の高評価と比べると、私の評価がやや厳しくなるのは自然な流れだったように思う。

 

『国宝』は、後半に入ってから一気に人間ドラマが濃くなり、作品としての見応えは確かにあった。

ただ、私にとっては歌舞伎の世界そのものが遠く、血筋や家柄、評価権を持つ人間に左右される世界にも強く共感することはできなかった。

結局、この映画を観て一番感じたのは、才能そのものよりも「どの土俵で戦うか」が人生を大きく左右するということだった。

世間でどれだけ話題になっていても、自分の人生に持ち帰れるものが少なければ、評価は自然と厳しくなる。

私にとって『国宝』は、絶賛する作品というより、「売れた理由を考える教材」として興味深い映画だった。

 

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