『俺ではない炎上』を82ページで損切り→再挑戦して星1――それでも映画版まで観てわかったこと

どうも。

 

2024年1月28日、浅倉秋成氏の小説『俺ではない炎上』を読み始めました。

しかし、僕はわずか82ページで損切りしました。

設定にリアリティを感じられず、「この謎の答えを知りたい」と思えなかったからです。

ところが、その後ある出来事をきっかけに、「炎上や情報拡散を扱ったこの作品には、自分が見落としている何かがあるのではないか」と考え、再び読み始めることになります。

 

そして363ページまで読み切った僕を待っていたのは、感動でも驚愕のどんでん返しでもなく、

「意味がわからない」

という、200冊以上の小説を読んできて初めてに近い体験でした。

評価は星1つ。

ところが、ネットの解説を読んで初めて、この作品の仕掛けが「叙述トリック」だったことを知ります。

 

さらに昔読んだ『殺戮にいたる病』でも同じような経験をしていたことを思い出し、そこで一つの仮説にたどり着きました。

もしかして僕は、叙述トリックそのものと相性が悪いのではないか?

そして2026年8月30日。

今度は映画版『俺ではない炎上』を観ることにしました。

小説では理解できなかった仕掛けを、映像なら理解できるのか。

星1だった作品への評価は変わるのか。

一度は82ページで捨てた物語との、約2年半越しの「答え合わせ」です。

 

小説『俺ではない炎上』感想――一度は82ページで損切り、それでも最後まで読んでみた結果

2024年1月28日、浅倉秋成氏の小説『俺ではない炎上』を読み始めました。

俺ではない炎上

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しかし、最初に読んだときは82ページで損切りしました。

同じ浅倉秋成氏の『家族解散まで千キロメートル』も途中で損切りしたのですが、この2作品には僕の中で共通する引っかかりがありました。

それは、設定にリアリティを感じられず、その結果として「この謎を解きたい」「犯人を知りたい」という欲求が生まれなかったことです。

これは、僕自身がエンタメそのものよりも「何か役に立つのか」「何か考える材料になるのか」という視点を重視しているから、余計にそう感じるのかもしれません。

 

僕は、解く意味を感じられない質問や問題設定に対して、長時間かけて答えを探したいと思わないのです。

もちろん、最後まで読めば、その謎や犯人を知ることによって、世の中や自分自身について考えるきっかけになる可能性はあります。

しかし、そこにたどり着くまで読み続けるだけの興味を持てなければ、なかなか厳しい。

そのため、僕は小説については比較的積極的に損切りするようにしています。

 

逆に言えば、序盤から「この謎の答えを知りたい」「この事件の真相を知りたい」と感じた小説ほど、実際に最後まで読んでみても名作だったことが多いです。

たとえば、根本聡一郎氏の『プロパガンダゲーム』

扱っているテーマが明確で、「プロパガンダについて何か学べるのではないか」という期待がありました。

それと同時に、「この先どうなるのだろう?」という純粋な物語への興味も持続し、最後のオチも意外性があって満足できました。

 

下村敦史氏の『全員犯人、だけど被害者、しかも探偵』も同様です。

タイトルの時点でテーマが明確で、「こんな設定から、いったいどうやって決着をつけるのだろう?」という疑問が生まれます。

そして最後にはどんでん返しがあり、満足できる内容でした。

同じ下村敦史氏の『真実の檻』はかなり重いテーマを扱っていますが、物語にはリアリティがあります。

だからこそ、「この事件の真相を知りたい」「本当の犯人は誰なのか?」という気持ちが強くなり、最後の結末にも納得できました。

さらに『同姓同名』では、「こんな画期的な問題提起ができるのか!」という驚きがありました。

それでいて、まったく現実離れした話ではなく、「実際に起きてもおかしくない」と思わせるリアリティがあります。

そこから二転三転する展開と最後のオチまで含め、満足度の高い作品でした。

こうした作品を読んだことで、下村敦史氏は僕の中で新作をチェックする小説家」の一人になりました。

 

夕木春央氏の『方舟』も面白かった作品です。

こちらは最初から、ミステリー小説らしい非現実的な設定です。

しかし、それを承知したうえで「この状況からどんな結末になるのだろう?」という興味が生まれ、最後には見事に「やられた!」と思わされました。

 

つまり、僕が面白いと感じる小説には、

「テーマへの興味」

「謎や真相を知りたいという欲求」

「物語を支える最低限のリアリティ」

「最後まで読むことに対する見返り」

といった要素があるのだと思います。

 

一方、僕が途中で損切りした浅倉秋成氏の2作品には、この要素が欠けているように感じました。

浅倉秋成氏の小説はこれまで3作品読みましたが、1作品を除いて損切りしています。

そのため、この時点では「今後も追いかけたい著者」のリストから外すことにしました。

 

ただ、この話は小説だけに限らない気もします。

世の中を巻き込むような論争やブームを作る場合にも、「その問題の答えを知りたいと思わせられるか」という視点は重要なのではないでしょうか。

自分自身に直接関係するテーマなら、自分が関心を持つのは当然です。

しかし、それだけでは多くの他人まで関心を持ってくれるとは限りません。

たとえば夫婦別姓問題についても、非常に重要だと考える人がいる一方で、「自分にはほとんど関係がない」と感じている人も多いでしょう。

それでも政治の世界では、大きなテーマとして議論され続けています。

 

一方、AIブームは違います。

AI失業、特にホワイトカラーの雇用問題や生産性向上と直接関係します。

さらに突き詰めれば、「人間にしかできないことは何なのか」「そもそも人間の役割や価値とは何なのか」というところまで話が広がります。

しかも、多くの人が実際にChatGPTなどのAIツールを日常的に触るようになっています。

自分との接点があり、なおかつ社会全体にも影響する。

だからこそ、多くの人がAIというテーマに強い関心を持つのでしょう。

 

――というところで、『俺ではない炎上』については82ページで損切りし、そのまま終わる予定でした。

ところが、その後、ある出来事をきっかけに考えが変わりました。

フジテレビをめぐる問題について、ひろゆき氏がYouTubeで語っていた内容を見たことがきっかけです。

ひろゆき氏は、X子さんがフジテレビのプロデューサーA氏の仲介によって中居氏に会ったのではなく、直接、中居氏の家に行ったという趣旨の話をしていました。

だからこそ、この問題については慎重に考えるべきだと主張していたのです。

 

当時、僕は週刊文春の記事を読んでいました。

そこに書かれていた内容とは違っていたため、「ひろゆき氏が間違った情報を流しているのではないか」と思いました。

ところが、2025年1月28日、週刊文春電子版で記事の内容が修正されました。

そこでA氏の関与についての記述が訂正され、結果として、ひろゆき氏が以前から話していた内容に近い形になったのです。

そこで疑問が生まれました。

なぜ、ひろゆき氏はその情報を先に知っていたのか?

どこかから、一般にはまだ広く知られていない独自情報を入手していたのではないか。

 

普段のひろゆき氏は、かなり断定的に話す場面もあります。

しかし、この件については妙に慎重で、その慎重さの根拠になっていた情報が、後になって表に出てきたように僕には見えました。

しかも、1月27日から約10時間にわたって行われたフジテレビの記者会見でも、多くの記者がその情報を把握していなかったように見えました。

この一件から僕が感じたのは、世の中には、いわば「インサイダー情報」のように、一般にはまだ知られていない事実を独自ルートで知っている人がいて、それを直接明かさずに匂わせながら発言するケースもあるのではないかということです。

もちろん、外部から本当の情報源を断定することはできません。

しかし、「表に出ている情報だけを見ていると間違っているように見える人物が、実は別の情報を持っている可能性がある」という点は、僕にとって一つの教訓になりました。

 

そこで思い出したのが、『俺ではない炎上』でした。

この小説も「炎上」をテーマにしています。

もしかすると、今のネット社会や情報拡散について、自分が見落としている何かを得られるのではないか。

そう考え直し、一度82ページで損切りした『俺ではない炎上』を再び読み始めることにしました。

 

ところが、そこからが長かった。

僕の場合、195ページあたりになってようやく展開が面白くなり始めました。

逆に言えば、そこまではかなり退屈で、読むのが拷問のように感じるほどきつかったです。

しかも、僕には物語の設定や展開にリアリティが乏しく、ご都合主義的に話が進んでいるように見えました。

「この先、本当に面白くなるのだろうか?」「ここまで読んで、何か得るものはあるのだろうか?」

そんな疑問を何度も抱きながら読み続けました。

それでも途中で再び損切りすることはせず、最終的には363ページまで読み、最後まで読了しました。

 

そして、読み終わった瞬間の感想は、

「意味がわからない」

でした。

僕はこれまで200冊以上の小説を読んできました。

もちろん細かい部分を見落とすことはありますが、基本的には物語の真相や謎、犯人などを理解し、「なるほど、こういうことだったのか」と納得したうえで読み終えています。

ところが、『俺ではない炎上』では、初めてと言っていいほど、真相も謎も犯人もよく理解できないまま読了してしまいました。

 

「途中で重要な部分を読み落としたのだろうか?」「自分の理解不足なのだろうか?」

と振り返りましたが、さすがに363ページをもう一度最初から読み返す気力はありません。

「やっぱり82ページで損切りしておけばよかったかな……」

とも思いました。

ただ一方で、

「世の中には、最後まで読んでもここまで意味がわからない小説があるのか!」

という、悪い意味での斬新な体験でもありました。

 

363ページを読み切り、途中で何度も損切りを考えながら、最終的にこの感想になったわけです。

そのため、僕の評価は星1つです。

ところが、その後、ネットで解説記事を見つけました。

そこで初めて、「これは叙述トリックだったのか!」と知りました。

解説記事

 

それを理解したことで、ようやく物語の話がつながりました。

つまり僕は、この作品の仕掛けそのものを理解できないまま最後まで読んでいたわけです。

Amazonレビューなどを見ると作品を絶賛している人も多く、僕の感想とはかなり乖離していました。

しかし、ここで昔の記憶がよみがえりました。

叙述トリックの代表作として知られる我孫子武丸氏の『殺戮にいたる病』を、20歳くらいの頃に読んだことがあります。

そのときも、僕は結末の意味がよくわかりませんでした。

当然、仕掛けの面白さも理解できません。

ところが世間では非常に評価の高い作品です。

どうやら僕は、叙述トリックというジャンルそのものと相性が悪いのかもしれません。

 

そして、ここまで来ると少し面白い。

もし最初の82ページで完全に損切りしていたら、「自分は叙述トリックを理解しにくい」ということにも気づかなかった可能性があります。

駄作だと思いながら最後まで読んだからこそ、自分自身の小説に対する好みや認知のクセが一つ見えた。

そう考えると、星1の作品ではあるけれど、読んだこと自体が完全な無駄だったとも言い切れません。

 

そして、この話にはさらに続きがあります。

2026年8月30日、映画版『俺ではない炎上』をU-NEXTで観ました。

小説版に対する僕の評価は星1つ。

しかも、最大の仕掛けである「叙述トリック」を理解できないまま読了し、後から解説記事を読んでようやく意味がわかった作品です。

だからこそ、逆に興味が湧きました。

 

「文章だから成立する叙述トリックを、映像ではいったいどう表現するのだろう?」

小説ではまったくハマらなかった作品が、映画になったらどう見えるのか。

小説では理解できなかった仕掛けを、映像なら理解できるのか。

あるいは映画でもやはり意味不明なのか。

作品への期待というより、半分はそんな興味本位の実験です。

そこでU-NEXTのポイントを使って、映画版『俺ではない炎上』を観てみることにしました。

果たして、星1だった小説の映画化で僕の評価は変わったのでしょうか。

 

AmazonPrimeVideoでは以下のスケジェールになっています。

2026年9月11日(金)
・俺ではない炎上 *見放題独占配信

 

そして、実際に映画版『俺ではない炎上』を観てみた感想ですが、映像になったことで、ようやく叙述トリックを含めて物語の全体像を理解することができました。

小説を読み終えたときには「結局、どういうことだったの?」という状態でしたが、映像では人物や場面が視覚的に整理されるため、「ああ、そういうことだったのか」と一つひとつ答え合わせをするように理解できました。

そして映画を観終えて思ったのは、

「これだけ複雑な仕掛けを、僕が活字だけで理解するのは無理だったんだな」

ということです。

 

ある意味では、自分が叙述トリックという表現形式と相性が悪いことを改めて確認する結果にもなりました。

そう考えると、映画化されて本当に良かった作品です。

小説を読んだときに理解できなかった部分について、数年越しにようやく「答え合わせ」ができました。

 

そのため、小説版については以前と変わらず星1つですが、映画版については内容そのものをきちんと理解でき、仕掛けや物語の構造も楽しめたので、星3.5とします。

そして意外だったのは、小説ではこれほど相性が悪かった作品なのに、実際に映画として観てみると、むしろかなり映像映えする物語だったことです。

僕にとって『俺ではない炎上』は、「原作を読んだから映画をより楽しめた」というより、「映画を観たことで、ようやく原作を理解できた」作品になりました。

 

終わりに

結局、小説版『俺ではない炎上』に対する僕の評価は星1つのままです。

しかし、映画版は星3.5

同じ物語なのに、ここまで評価が変わりました。

映画を観て初めて叙述トリックを含めた物語の全体像を理解し、「なるほど、こういう話だったのか」と約2年半越しに答え合わせができたからです。

そして今回の経験で面白かったのは、「作品の評価」と「作品から得られるもの」は必ずしも一致しないと気づいたことでした。

 

もし最初の82ページで損切りしたままだったら、363ページを読む苦行は避けられました。

しかし同時に、僕が『殺戮にいたる病』でも同じように仕掛けを理解できなかったことを思い出し、「自分は叙述トリックを活字で理解するのが苦手なのではないか」という、自分自身の認知のクセにも気づけなかったでしょう。

そして映画版を観たことで、それがよりはっきりしました。

僕には理解できなかった物語が、映像になった瞬間につながったのです。

 

これは単純に「小説より映画のほうが優れている」という話ではありません。

同じ物語でも、情報の提示方法によって、人間の理解度は大きく変わるということなのでしょう。

僕にとって『俺ではない炎上』は、面白い小説ではありませんでした。

それでも、一度損切りした作品を最後まで読み、さらに映画まで観たことで、作品そのもの以上に、「自分は何を面白いと感じ、どんな情報なら理解しやすく、逆に何を理解しにくいのか」を知ることができました。

 

そう考えると、星1だった363ページも完全な無駄ではなかったのかもしれません。

そして何より、小説では最後まで意味がわからなかった物語が、映画になったことでようやく理解できた。

原作を読んだから映画がわかったのではなく、映画を観たことで、ようやく原作がわかった。

僕にとって『俺ではない炎上』は、そんな少し変わった作品になりました。

 

 

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