どうも。
人が何に価値を感じるかは、それぞれまったく違う。
見ているYouTube、付き合う人、時間やお金の使い方、趣味への向き合い方。
そこには、その人の人生観がはっきり表れる。
だからこそ、全員に理解される必要はない。
大切なのは、世間の評価に合わせることではなく、自分にとって本当に意味のあるものを選び、限られたリソースをそこに注ぐことではないか。
この記事では、価値観、人間関係、お金、趣味、言語化、そしてコントロール可能なものへの集中を通して、「自分の人生を自分で選ぶ」ということについて考えていく。
人が何を重要だと感じ、何に価値を見出すかは、人それぞれ大きく異なる。
YouTubeのおすすめ欄に表示される動画一覧を見ても、その人の興味関心や価値観がある程度反映されている。
そして、その一覧を見ることで、その人との相性の良し悪しも、ある程度は推測できるのではないかと思う。
例えば、私は、ひろゆき氏、メンタリストDaiGo氏、岡田斗司夫氏、節約系のくらま氏や節約オタクふゆこ氏、星野ロミ氏、宋世羅氏、高須幹弥氏、さきの海外不動産しか勝たん氏、戸田覚氏などの発信する情報に価値を感じ、視聴している。
しかし、これらの人物の情報に価値を感じない人も当然いる。
私が見ているYouTuberの一覧を見て、「え、こんな人たちを見ているの?」と理解できない人もいるだろうし、逆に、私が他人のおすすめ一覧を見て、「なぜこの人を見ているのだろう」と感じることもある。
つまり、「類は友を呼ぶ」という言葉の通り、人は性格や価値観など、さまざまな面で似た者同士が集まりやすいのだと思う。
そして、価値観が大きく異なる相手と無理をして関わる必要はなく、付き合う相手を選ぶ自由も私たちにはある。
だからこそ、すべての人、あるいは多くの人に理解されたり評価されたりすることは不可能であり、その必要もないのだと思う。
自分らしい人生を生き、それによって幸福を得られたのであれば、その生き方に共鳴してくれる人と付き合ったり、探したりすればよい。
世間一般で人気があるかどうか、他人から高く評価されているかどうかは、本質的にはどうでもよいことである。
大切なのは、自分と似た価値観を持つ人と出会い、自分自身が納得できる人生を送ることなのだと思う。
また、私は、裕福でありながら余裕がなく、不幸そうに見える人を見るたびに、「いったい何のためのお金なのだろう」と感じることがある。
「お金は不幸を減らすが、幸せそのものをもたらすわけではない」という言葉があるが、まさにその典型例だと思う。
一方で、私自身は決して多くのリソースを持っているわけではない。
しかし、そのような状況の中でも、主観的な幸福度で五点程度の状態まで到達できているのであれば、それなりによくやったのではないかと感じている。
リソースが少なくても、それなりに人生を味わい、楽しめているのであれば、それはその人なりの最適解であり、ベストを尽くした結果なのではないだろうか。
だからこそ、高収入でありながら不幸そうな人を見ると、「その高年収は、本当にあなたの人生を満たしたのだろうか」と考えてしまうのである。
さらに、お金をひたすら稼いではいるものの、お金の使い方がわからない人を見ると、それもまた「何のためにお金を稼いでいるのだろう」と感じる。
『Die With Zero』という本では、最後は資産を使い切って死ぬことが理想だという考え方が紹介されているが、お金は使ってこそ価値を発揮するものだと思う。
もし、本当に使い道がないのであれば、必要以上の大金を稼ぎ続ける意味とは何なのだろうか。
将棋についても、私は「たかが将棋」だと思っている。
執着する対象ではなく、単なる暇つぶしの一つである。
将棋に情熱を注ぎ、どれだけ上達したとしても、際限がない。
そして、それが人生において決定的な意味を持つとも思わない。
本当に、ただの暇つぶしとして行う程度のものである。
YouTubeや執筆など、自分なりの鍛錬を続けていると、ふと息抜きをしたくなることがある。
そして、その息抜きとして選ばれているのが将棋である。
もっとも、将棋が完璧な息抜きとして機能しているかというと、そうでもない。
他に適切な代替案が見つからないため、消極的な選択として続けている側面もある。
テニスについても同様である。
私にとってテニスは、人生を賭けて本格的に取り組む対象ではない。
テニス仲間がいるから続けている部分もあるし、運動として健康によいという理由もある。
試合に勝つことに強く執着しているわけではなく、一勝できれば十分だという感覚である。
将棋もテニスも、人生の中心になるほど重要なものではない。
スポーツ観戦も同じである。
ワールドカップを熱心に観戦したところで、私の人生が劇的に変わるわけではない。
そのため、私はワールドカップにほとんど興味がなく、観戦もしない。
その時間を使った結果、何が残るのだろうか。
私の人生が前進するような要素があるのだろうか。
そう考えると、私にとっての優先順位は高くないのである。
流行についても同様だ。
『鬼滅の刃』にしても、流行に乗って漫画や映画を見たからといって、私の人生が大きく前進するとは思わない。
私は漫画版を二巻程度で読むのをやめ、映画も観ていない。
しかし、それによって困ったことは何もなかった。
また、言語化についても思うところがある。
悩みや問題の原因、物事の構造などを言語化することによって、問題解決への道筋は見えやすくなる。
しかし、中には言語化しただけで満足し、実際の行動や習慣の変化につなげない人もいる。
言語化したこと自体に価値があると思い込み、それが評価につながると考えているようにも見える。
しかし、本来、言語化とは行動や習慣化のきっかけに過ぎない。
自分の弱点や至らなさを言語化し、把握することは重要である。
しかし、その後も行動せず、改善しようとしないのであれば、いったい何のための言語化なのだろうか。
私は、言語化によって、コントロール可能なことと不可能なことを切り分ける。
そして、自分にとって重要だと思えること、価値観に沿ったことに対して行動を強化する。
さらに、言語化して記録を残すことで、それをネタや教訓として活用し、二度と同じ過ちを繰り返さないための材料とする。
つまり、私にとって言語化とは、人生をより生きやすくするために行動を変化させる手段なのである。
言語化して満足するためのものではない。
また、私は人生のさまざまな問題を、「コントロール可能かどうか」と「変えることに意味や価値があるかどうか」という視点から分類している。
人生をコントロール可能であり、なおかつ変える意義や意味が大いにあるものもある。
コントロール可能であり、変える価値がそれなりにあるものもある。
一方で、コントロールが難しく、変えるためには多大な努力が必要だが、それでもどうしても変えたいものもある。
そして、そもそもコントロールが難しく、変えること自体に意味や価値を感じないものもある。
このように仕分けをしたうえで、自分が変える価値があると思えるものに対して労力を注ぐようにしている。
例えば、私の持病については、ほとんどコントロール不可能であり、最終的には薬に頼らざるを得ないという結論に至った。
そのため、無理に抗うのではなく、薬を活用しながら付き合っていくことにしている。
一方で、節約については、少しでも改善する努力を積み重ねてきた。
そして、自分の人生において、節約こそが大きな転機になったと感じている。
ダイエットや筋トレも同様である。
どちらかといえば苦手な分野ではあるが、負荷が大きいにもかかわらず、継続することができている。
セキュリティについても、一般的なハッキングに対しては十分に防衛できるレベルに達したと考えている。
しかし、国家レベルの攻撃については防ぐことは不可能だと判断し、そこは割り切っている。
人間関係についても、身内は簡単に選んだり切り離したりできないため、うまく付き合っていくしかない。
しかし、それ以外の人間関係については、自分で選択することができる。
自分と相性が良いのであれば付き合えばよいし、合わないのであれば無理に関係を持つ必要はない。
話術についても、もともとは苦手分野だった。
しかし、自分なりに努力を重ねた結果、十点満点中七点程度までは到達できたのではないかと感じている。
そして、そこまでできれば十分だと納得している。
このように、コントロール可能か不可能か、変える意味や価値があるかどうかという基準で物事を整理し、自分で選択して行動することで、私のQOLは向上した。
基本的に、世間や他人の価値観に振り回されるのではなく、自分自身が「これは価値がある」「やる意味がある」と思えることを中心に行動するようになったことで、人生は以前よりもずっと生きやすくなった。
つまり、自分に正直に生きる割合が大きくなったのである。
そして、自分に正直に生きられるようになると、精神的な余裕も生まれる。
だからこそ、自分に正直に生きられる環境に身を置くことこそが、本当の意味での自由であり、幸福へと近づくことなのではないかと思う。

ここからはChatGPTに聞いた回答です。
あなたの文章全体を読むと、単なる「好き嫌いの話」ではなく、一貫した人生哲学が見えてきます。
大きく整理すると、以下のような思想です。
- 人によって価値観は異なる。
- 全員に理解・評価されることは不可能である。
- コントロール可能なことに労力を集中すべきである。
- 人生の資源(時間・お金・体力・精神力)は有限である。
- その有限資源を、自分にとって意味のあるものに投下するべきである。
- 言語化は自己満足ではなく、行動変容のために使うべきである。
- 幸福とは、他人の価値観ではなく、自分の価値観に沿って生きることによって得られる。
かなり筋の通った考え方だと思います。
一方で、いくつか補足できる視点もあります。
まず、「人は自分と似た人と付き合えばよい」という部分です。
これはある程度正しいです。
実際、価値観の一致は人間関係の満足度に大きく影響します。
YouTubeのおすすめ欄は、その人の興味関心の縮図とも言えるでしょう。
しかし、完全に似た人だけに囲まれると、「認知の偏り」が起こる危険もあります。
たとえば、
- 節約好きは節約好きと集まり、
- 投資家は投資家と集まり、
- 陰謀論者は陰謀論者と集まり、
- ミニマリストはミニマリストと集まり、
互いの価値観を強化し続けます。
これは安心感を生む一方で、自分の前提そのものを疑う機会を失わせます。
だから、「基本は価値観の近い人と付き合う。ただし、ときどき異質な人の視点も取り入れる」という姿勢のほうが、長期的には柔軟性を保てるかもしれません。
次に、「人生を前進させるものだけに価値があるのか」という点です。
ここは少し考える余地があります。
あなたは、W杯を観ても人生は前進しない、将棋は暇つぶしである、流行の映画を観ても人生は変わらない、と述べています。
これは、効率性の観点ではその通りです。
しかし、人間は必ずしも「前進」だけで幸福になるわけではありません。
人生には、
- 前進の時間
- 停滞の時間
- 遊びの時間
- 無駄の時間
が存在します。
そして、「無駄」が後から意味を持つこともあります。
例えば、友人との他愛ない雑談、たまたま見た映画、興味のなかったスポーツ観戦などが、思わぬ人間関係や価値観の変化をもたらすことがあります。
つまり、「人生を前進させるかどうか」だけではなく、「人生を豊かにするかどうか」という評価軸も存在します。
もちろん、あなたはリソースが限られているからこそ、「前進」を優先しているのでしょう。
それは合理的な戦略です。
ただ、余裕が生まれたときには、あえて非効率な遊びを許容することも、幸福の一部かもしれません。
また、「言語化」に関する考え方は非常に重要だと思いました。
あなたは、言語化は行動変容のためのものであると言っています。
これは本質的です。
自己分析ばかりして何も変わらない人は少なくありません。
「なぜ自分はこうなのか」「原因は何なのか」「親のせいか」「社会のせいか」
ここで止まってしまう。
しかし、本来は、理解 → 行動 → 習慣 → 結果という流れが必要です。
だから、言語化してネタと教訓にし、二度と同じ過ちを繰り返さないという姿勢は、とても実践的だと思います。
一方で、ここにも落とし穴があります。
それは、「改善し続けること」が目的化することです。
節約、筋トレ、セキュリティ、コミュニケーション。
どれも改善し続けられる分野です。
しかし、人生はゲームのように「全ステータスを最大化すること」が目的ではありません。
ある地点で、「ここまでで十分」と線を引く必要があります。
実際、あなた自身も、話術は7点で十分、一般的なハッキング対策は十分と書いています。
これは非常に大事な視点です。
完璧主義はQOLを下げます。
「80点で満足する力」は幸福に直結します。
そして最後に、あなたの文章全体から感じたのは、「自分の人生の主導権を取り戻そうとしている」ということです。
若い頃は、
- 世間が評価するもの
- 他人が望む生き方
- 流行
- 常識
に振り回されやすい。
しかし、あなたは、「本当に自分にとって意味があるのか?」という問いを何度も繰り返している。
これは、自分の価値観で人生を再構築する作業とも言えます。
ただし、その問いは、「役に立つか?」だけではなく、
「楽しいか?」
「美しいか?」
「心が動くか?」
「誰かと共有したいか?」
という方向にも広げていくと、さらに豊かなものになるかもしれません。
人生は効率だけでは味気ない。
しかし、効率を無視すると破綻する。
だから、おそらく重要なのは、「必要な効率を確保した上で、自分なりの無駄を楽しめること」なのだと思います。
あなたの現在の生き方は、「他人の人生」から「自分の人生」へ軸を移していく過程にあるように見えます。
そして、その過程で見つけた答えが、コントロールできることに集中し、自分の価値観に沿って生きることなのだとすれば、それは十分に実践する価値のある人生戦略でしょう。
ただ、その戦略の先には、「何のために生きるか」ではなく、「どう味わいながら生きるか」という、もう一段階先の問いが待っているようにも感じました。
結局のところ、自由とは、何でも好き勝手にできることではなく、自分にとって本当に価値のあるものを選べる状態なのだと思う。
他人の評価や流行に振り回されず、コントロールできることに力を注ぎ、合わないものからは静かに離れる。
そうして少しずつ、自分に正直に生きられる環境を整えていく。
その先にあるのは、派手な成功ではないかもしれない。
しかし、自分の価値観に沿って人生を味わえるなら、それは十分に自由であり、幸福に近い生き方なのだと思う。

