どうも。
世の中には、「面白ければOK」という価値観の人がいる。
その人にとって、何に時間を使うか、誰と関わるか、どこにお金やエネルギーを投資するかの判断軸は、「それが面白いかどうか」である。逆に言えば、面白くないものには価値を感じにくい。
一方、私の価値観はかなり違う。私はどちらかといえば、「役に立てばOK」という軸で物事を見ている。投資するかどうか、時間を使うかどうか、人と関わるかどうかも、それが自分や誰かにとって役立つかどうかが大きな基準になる。逆に言えば、役に立たないものには価値を感じにくい。
しかし、この二つの価値観は、世間からの受け取られ方がかなり違う。
「役に立たなければ価値がない」と言うと、かなり冷たく聞こえる。場合によっては、「では、生産性のない人間には価値がないのか」と受け取られ、差別的、排除的、選民思想的だと見なされることもある。
ところが、「面白くなければ価値がない」という言い方は、なぜかそこまで差別的に見られにくい。
これは不思議な違いである。
おそらく、一番大きな理由は、「価値」と「人間としての価値」が混同されやすいかどうかにある。
「役に立たなければ価値がない」という言葉は、多くの人には「役に立たない人間には価値がない」と聞こえてしまう。しかし実際に私が言いたいのは、「私は時間・お金・エネルギーを投資する基準として、役立つものを優先する」ということである。
これは、人間そのものの価値を否定しているわけではない。あくまで、投資価値、関与する価値、時間を使う価値の話である。
しかし、「役に立つ」という言葉は、能力、生産性、成果、問題解決、コスト削減と結びつきやすい。つまり、どうしても能力評価に聞こえる。能力評価には上下がある。優秀か無能か、成果を出せるか出せないか、貢献できるかできないかという序列を連想させる。
だから「役に立つ」という基準は、競争や選別の匂いを帯びやすい。
一方、「面白い」は能力評価というより、個性、キャラクター、ストーリー、感情に近い。失敗談、黒歴史、天然、変人、ダメさ、破天荒さまでコンテンツになる。つまり、欠点すら価値に変わる。
ここに大きな違いがある。
「役に立つ」はランキングになりやすい。会社、受験、営業、スポーツ、専門職などでは、誰が一番成果を出すかが問題になる。役立つ世界は、どうしてもゼロサム的になりやすい。
一方、「面白い」は共存しやすい。芸人Aも面白いし、芸人Bも面白いし、芸人Cも面白い。方向性が違えば、それぞれ別の面白さとして成立する。面白さの世界では、ダメさやズレや無駄さも資産になる。
このため、「面白ければOK」という価値観は庶民性を帯びやすい。ダメ人間や変わり者にも焦点が当たるからである。お笑い芸人、配信者、YouTuber、落語、映画などは、まさにそういう世界である。普通に優秀な会社員よりも、どこか壊れている人、ズレている人、失敗している人のほうが、エンタメとしては価値を持つことがある。
だから「面白ければOK」は、大衆的で支持を得やすい。
一方、「役立てばOK」は、どうしてもエリート寄りに見える。スキルがある人、特技がある人、問題解決できる人、成果を出せる人が評価されるからである。そこには庶民性が薄く、ダメ人間へのまなざしが弱い。だから、支持を得にくく、冷たい価値観に見られやすい。
しかし、これは単純に「役立つ派が冷たく、面白い派が優しい」という話ではない。
「面白くなければ価値がない」という価値観も、ユーモアの才能がない人間からすると、十分にきつい。私自身、ユーモアの才能が強いタイプではないので、「面白くなければ価値がない」という空気には、どこかマイナスの圧を感じる。
ただ、「面白ければOK」と言う人は、多くの場合、人間全般に対してネガティブなイメージを持っていないように見える。ダメな人でも、変な人でも、失敗した人でも、「それはそれで面白い」と受け止める楽観性がある。だから周囲から支持されやすい。
一方、「役立たなければ価値がない」という言い方は、ネガティブ系の人が言うと、排除性や選民思想が強く見える。たとえ中身としては合理的なことを言っていても、印象としては冷たく響く。
ただし、ここも微妙である。面白ければOK派の中にも、当然、ネガティブで選民思想的な人はいる。結局のところ、かなりの部分は「言葉の印象」と「話し手の印象」の問題なのかもしれない。
また、両者は「無駄」に対する感覚も違う。
役に立てばOK派は、難問を解いたり、アハ体験を得たり、創意工夫によってコストを削減できたときに楽しさを感じる。実用性、改善、最適化、問題解決が脳内報酬になる。
例えば、ハッキングされたとしても、そこから教訓を得て防御強化につながったなら、「災い転じて福となす」と解釈できる。被害は嫌だが、そこから役立つ知見が得られたなら、まだ意味がある。
しかし、ハッキングされて被害だけ受け、何の教訓も得られず、ネタにすらならないなら、それは面白くもなく役にも立たない。単なる損失である。
一方、面白ければOK派は、コスパをそこまで重視しない。ハッキングされたとしても、「ハッキングされちゃったよ」という話として消化できるかもしれない。それがコンテンツとしてウケれば、それだけで価値が生じる。
人付き合いでも同じである。
役に立てばOK派は、有害な人に出会い、騙されたり、裏切られたり、詐欺に遭った場合、そこから教訓を得て、対策し、二度と同じ過ちを犯さないようになったなら、「役に立った」と解釈できる。しかし、ただ損害だけを受けたなら、それは無駄である。
一方、面白ければOK派は、そういう被害すらネタとして消化できる可能性がある。恨みがまったくないわけではないだろうが、話として面白くなれば、それはそれで価値になる。
ここに、両者の世界観の違いがある。
面白ければOK派は、壮大な無駄を許容できる。旅、文化祭、恋愛、映画、スポーツ観戦、ゲーム、文学、美術館、哲学などは、コスパだけで見れば悪いものも多い。しかし、それでも面白い。体験そのものに価値がある。
役に立てばOK派は、未来の利益を重視する。そこから何を学べるか、どう改善できるか、何に応用できるかを考える。面白ければOK派は、現在の経験を重視する。その瞬間が面白いなら、それで十分価値がある。
この違いは、性格特性とも関係していそうである。
まず、面白ければOK派は、外向性とある程度相関がありそうだ。外向型は外の世界に注意が向きやすく、人付き合い、イベント、刺激、新しい経験に開かれている。人間関係の幅も広く、役に立てばOK派ほど厳格に選別しない傾向があるかもしれない。
そのため、面白ければOK派と外向性の相関係数を推測するなら、r=0.35〜0.45程度だと思う。弱から中程度の相関である。強い相関ではない。なぜなら、内向型でも面白さを追求する人はいるし、芸人や作家の中にも内向的な人は多いからである。
一方、役に立てばOK派は、内向性とある程度相関がありそうだ。内向型は狭く深い人間関係を好みやすく、専門性、知識、一人作業、問題解決、効率と相性がよい。優秀層や特技のある人と深く関わるという姿勢も、内向型の傾向と重なる部分がある。
この相関は、r=0.30〜0.40程度だろう。こちらも強すぎる相関ではない。内向型だから必ず実用主義というわけではないし、外向型にも実用主義者はいるからである。
神経症的傾向とも関係していそうである。
役に立てばOK派は、神経症的傾向とr=0.20〜0.35程度の相関があるかもしれない。神経症傾向が高い人ほど、損失回避、リスク管理、失敗防止、効率、安全策を重視しやすい。無駄を嫌い、失敗から何かを回収しようとする。
逆に、面白ければOK派は、失敗すらネタ化できる。裏切りや詐欺に遭っても、それを完全に許すわけではないにせよ、活動量が多ければ記憶が薄れやすく、次の刺激に移りやすい可能性がある。
ただし、ここは慎重に見る必要がある。外向型でも深く傷つく人はいるし、内向型でもネタ化能力が高い人はいる。性格特性だけで単純に決められるものではない。
開放性も重要である。
開放性が高い人は、役に立つものを「面白い」と感じられる可能性がある。数学、哲学、AI、セキュリティ、歴史、心理学、社会分析などは、実用的であると同時に知的に面白い。つまり、役立つことと面白いことが重なる。
私のような役に立てばOK派の意見を「興味深い」「面白い」と受け取ってくれるのは、おそらく開放性が高い人である。相関を推測するなら、開放性と知的な役立てばOK派の相関はr=0.45前後ありそうだ。
ただし、面白ければOK派のエンタメ性と開放性の関係は少し複雑である。開放性が高い人は芸術、文学、哲学、変わった体験を面白がるが、大衆的なお笑いや軽いエンタメを好むかどうかはまた別である。つまり、開放性は「深い面白さ」や「未知への好奇心」とは関係しやすいが、すべてのエンタメ志向と直結するわけではない。
さらに、誠実性との関係も大きい。
むしろ役に立てばOK派と一番相関が高そうなのは、誠実性である。誠実性は、計画、努力、責任、達成、効率、成果と結びつく。役に立つこと、改善すること、無駄を減らすこと、将来のリターンを考えることと相性がよい。
そのため、役に立てばOK派と誠実性の相関はr=0.50〜0.65程度あっても不思議ではない。
一方、面白ければOK派は、協調性とも関係しそうである。人を受け入れやすい、変人にも寛容、失敗にも寛容、ダメさにも価値を見出すという態度は、協調性と重なる部分がある。推測するなら、面白ければOK派と協調性の相関はr=0.30前後だろう。
ただし、面白ければOK派が必ず優しいわけではない。人を笑いものにするタイプの面白さもある。逆に、役に立てばOK派でも、相手を本気で助けようとする人はいる。だから、ここでも単純化は危険である。
もう一つ重要なのは、これは単なる評価軸の違いではなく、報酬系の違いかもしれないということである。
役に立てばOK派は、問題解決、最適化、改善、理解、コスト削減、危機回避に快感を覚える。難問を解いたとき、仕組みが見えたとき、生活が改善したときに脳内報酬が出る。
面白ければOK派は、驚き、笑い、感情の揺れ、ストーリー、偶然、ハプニング、キャラクターに快感を覚える。無駄であっても、役に立たなくても、それが体験として面白ければ報酬になる。
つまり、両者は「何を価値と呼ぶか」以前に、「何に快感を覚えるか」が違う。
会社組織では、エンタメ産業でもない限り、基本的には役に立てばOK派が有利だろう。会社は成果、効率、スキル、問題解決、利益を求める場所だからである。特に専門職や技術職では、役に立つことの価値は非常に高い。
一方、プライベートやエンタメ産業では、面白ければOK派が有利になりやすい。人間関係では、役に立つかどうかだけで選別されると息苦しい。友人関係、恋愛、雑談、遊び、創作、配信、芸能の世界では、無駄やズレや失敗が価値になる。
だから、役に立てばOK派と面白ければOK派は、どちらが正しいというより、活躍する場所が違うのだと思う。
ただし、この二つは両極端に分けたモデルであり、現実には中間の人も多い。仕事では役立つことを重視し、プライベートでは面白さを重視する人もいる。研究者でも休日には映画や落語を楽しむし、お笑い芸人でも舞台裏では効率や収益性を徹底的に考える。
つまり、「役に立つ」と「面白い」は対立概念というより、状況によって切り替わる二つのモードである。
私自身は、この連続体の中でかなり「役に立つ」側に寄っている。時間、お金、エネルギーを使うなら、将来の改善や問題解決につながるものを選びたい。無駄を減らし、損失を防ぎ、何かを学び、次に活かしたい。
一方、面白ければOK派は、将来の利益よりも、その体験自体が人生を豊かにすると感じる。無駄、失敗、ダメさ、変人性、偶然のハプニングを受け入れ、それを面白がる。
この違いを理解すると、人間関係のすれ違いも少し見えやすくなる。
役に立てばOK派から見ると、面白ければOK派は無駄が多く、コスパが悪く、危機管理が甘く見える。面白ければOK派から見ると、役に立てばOK派は冷たく、余裕がなく、人間味や遊びが少なく見える。
しかし、どちらも一つの報酬系であり、一つの世界の見方である。
重要なのは、「役に立つものだけが人間の価値ではない」と理解しながらも、「自分は役に立つものに強く価値を感じる」と明確にすることだろう。
そして同時に、「面白いものだけが人間の価値ではない」と理解しながらも、「面白さによって人生を豊かにしている人もいる」と認めることである。
私にとって特に大きかったのは、外向型の「外に注意を向ける」という姿勢に気づいたことである。外向型は、自分の内側だけでなく、外の出来事、人、刺激、偶然に注意を向ける。だから記憶や不安に閉じこもりにくく、活動の中で感情が流れていく。
この視点に気づいたとき、メンタルが少し安定した。社交不安の改善にもつながった。
内側で考え続けるだけではなく、外側に注意を向ける。役に立つかどうかだけでなく、目の前の出来事を少し面白がってみる。そうすることで、役に立てばOK派の硬さが少しほぐれるのかもしれない。
結局、「役に立つ」と「面白い」は、どちらか一方だけで人生を支えるには偏りが出る。
役に立つものは、生活を改善する。
面白いものは、人生を耐えやすくする。
役に立つものは、未来を良くする。
面白いものは、現在を豊かにする。
だから本当は、両方必要なのだろう。
ただし、人によって比重が違う。私の場合は、明らかに「役に立つ」側に寄っている。そのこと自体は悪くない。むしろ、自分の投資基準としては非常に明確である。
問題は、それを「人間の価値」ではなく、「自分が有限な時間とエネルギーをどう配分するかの基準」として表現することだ。
そう言い換えれば、役に立てばOKという価値観は、冷たい選民思想ではなく、有限な人生をどう設計するかという戦略になる。
「面白くなければテレビじゃない」というフジテレビの価値観は、裏を返せば「面白ければOK」という発想でもあった。面白さが最優先されるあまり、倫理観や人権への配慮が後回しになる企業文化が生まれ、外向的でパリピ気質の人材が集まりやすい環境でもあった。
しかし、そのような時代は終わりを迎えた。とはいえ、モラルや人権を尊重することを前提にした「面白さの追求」と、外向型特有の「外へ意識を向ける姿勢」そのものは、今なお学ぶ価値のある長所だと私は考えている。

